■いちろと俺
いちろは俺のこと、ばかだって言う。
いちろだけじゃなくて、みんなも俺のことをばかだって言うから、きっとそうなんだと思う。でも、いちろが一番たくさん言う。いちろはちょっと言いすぎだと思う。
なんで、いちろが一番たくさん言うのかなって考えたら、いちろが一番たくさん俺と一緒にいるからかもしれないって気づいた。
いちろは俺の母さんや父さんよりずっと、いつも俺と一緒にいる。小さい頃からずっと、いちろは俺のそばにいる。一番一緒にいるから一番話をするし、だから一番たくさんばかって言うのかもしれない。
俺は本当は人からばかって言われるのは好きじゃない。ばかって言われると悲しくなるから。
だって俺ね、俺もね、みんなと同じようにしたい。勉強も運動も、みんな。
でも、俺はちょっとトロくって、ばかで、だからなかなかうまくできない。
俺が失敗したとき、みんな俺が『ばか』だから、『トロい』からだって言う。だから仕方ないって。
俺はそれが悲しい。……ううん、きっとたぶん、ちょっと……悔しい。
仕方ないって、だからもういいって言われると、なんだか俺は頑張っても駄目なのかなって思う。無駄なのかなって。
だから、俺は人にばかって言われるのは好きじゃない。
でもね、俺、いちろにばかって言われるのは嫌じゃない。
俺が失敗するといちろも俺のこと『ばかだな』って、『トロいな』って言う。でも、いちろは仕方ないって言わないんだ。
『ばかだな』って言った後、優しく笑って、『じゃあもうちょい頑張ってみっか』って言ってくれる。俺ができるようになるまで一緒にいてくれる。
いちろの『ばか』は優しい。
高校受験のときも、いちろはそばにいてくれた。
俺がいちろと同じ高校に行きたいって言ったら、先生も友達たちも、みんな無理だって、あきらめろって言った。
でも、いちろだけは頑張れって言ってくれた。自分だって勉強たいへんなのに、俺の勉強も見てくれた。
いちろが一緒にいてくれたから、俺頑張れたよ。
補欠で、だけど、みんな無理って言ってたいちろと同じ高校にも入れた。
今日も俺はいちろの部屋で勉強してる。
先に課題を終わらせたいちろは、隣でのんびりマンガを読んでいて、俺はその顔をじっと眺めていた。
ふと、俺の視線に気づいたいちろが顔を上げる。
「……何へらへら笑ってんだ、卓巳。
ってコラ、さっきからちっとも進んでねーじゃねぇの」
しまった。色々思い出しながら、いちろの顔を見てたら、知らないうちににやけてしまっていたらしい。
いけないいけないと精一杯『むずかしい顔』を作っていると、いちろは苦笑いして俺の頭をぽふぽふと叩いた。
他の人にこんなことされたら、もう子供じゃないんだからって、むっとするけど。いちろのぽふぽふは好き。あったかいから好き。
なんだか俺は嬉しくなって、頭の上のいちろの手を両手で捕まえた。大きな手。
あったかいなぁと、そのまま頭の上でにぎにぎしていたら、いちろが困ったような表情になった。
「……お前ね」
なんだか、いちろ頬っぺたが少し赤い? どうしてかな。
「いちろ、だいすきー」
俺は手を離すと、いちろにしがみついた。
セーターの胸元に鼻を押し付ける。洗濯した良い匂いと、ちょっとだけ汗の匂いがした。
「お前……絶対意味分かってねーだろ」
いちろが溜息まじりに言った。
俺は今いちろにしがみ付いてるから顔は見えないけど、きっと呆れたみたいな困ったみたいな顔をしてるんだと思う。いちろはこんな時いつもそんな表情をするから。
あのね、いちろ。俺はいちろが好き。
俺ね、ばかだけど、この『好き』が友達や家族の『好き』とは違うんだって知ってるよ。
ほんとに好きなんだよって、伝えたいけど伝えたくない。
不思議だね、今まで俺いちろには隠し事なんてしたことなかったのに。伝えるのが怖くなるなんて思ってもみなかった。
好き。好きだよ、いちろ。
今はまだ言えないけど。でも、でも、いつかきっと……伝えるからね。いちろ。
2007/03/02up